水の歴史

§2002.7.11§




母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷(うすひ)から霧積(きりづみ)へ行くみちで、
渓谿(けいこく)へ落としたあの麦稈(むぎわら)帽子ですよ

母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕はあのとき、ずいぶんくやしかつた、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

―― 母さん、あのとき向こうから若い薬売りがきましたつけね。
紺の脚絆(きゃはん)に手甲(てっこう)をした。――

そして拾は(お)うとしてずいぶん骨折つてくれましたつけね。
だけどたうたうだめだつた。
なにしろ深い谿(たに)で、それに草が背丈ぐらゐ伸びていたんですもの。

―― 母さん、ほんとにあの帽子どうなつたでせう?
そのとき傍(そば)で咲いていた車百合(くるまゆり)の花は、
もうとうにかれちやつたでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼(な)いたかも知れませんよ。

―― 母さん、そしてきつと今頃は ――
今夜あたりは、あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう。
昔、つやつや光つた、あの伊太利(イタリー)麦の帽子と、
その裏にぼくが書いたY.Sといふ頭文字を埋めるやふに、静かに、寂しく――


西条八十


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