水の歴史

§2002.12.3§




真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向こうに「もの」のように現れるのだと思う。たとえば室町時代の人間が、とつぜん生きかえって今日を見た場合、彼は現代を地獄だと思うだろうか?どう思おうと、はっきりしていることは、彼にはもはやどんな判断の資格も欠けているということだ。この場合、判断し裁いているのは、彼ではなくて、むしろこの現在なのである。
だからぼくも、未来を裁く対象としてではなく、逆に裁くものとして、とらえなければならないと考えたわけである。それは、ユートピアでもなければ、地獄でもなく、またどんな好奇心の対象にもなりえない。要するに一箇の未来社会にほかなるまい。そして、それがもし、現在よりはるかに高度に発展し進化した社会であるにしても、日常性という現在の微視的連続感に埋没している眼には、単に苦悩をひきおこすものにしかすぎないだろう。


安部公房


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